どんな状況でも、自分を一生懸命守らなければいけないと感じているときは、自分の中では。逆に否定的なものを信じ、そちらのほうがパワーを持っていると信じている時です。自分で本当に「これは肯定的なものだ」と決め、執着を捨ててください。
肯定的なものだと知っていれば、否定的なものがそこから出てくることはできません。
ただ、どこかで、自分が再び選択をし直しているとしたら、否定的なものが出てきます。
自分は比喩でいいますけど、自分の事は自分が一番よくわかっていると思います。
肯定的とか、否定的とかいう解釈は、動機が綺麗か汚いかで、解釈もだいぶ変わってくるでしょう。
いい人のようで悪い人もいます。
見た目良い人だったのに、一生懸命頑張ってる奥さんを裏切り、近所の若い奥さんと浮気していたりして、そうするともう、これは、「一見いい人だけど、腹黒いじじい」認定になります。
自分はいい人だと装う人が影で悪いことをしていた時のショックは激しいです。
でも何故かホッとしたりして。
ああ、第一印象で感じた違和感は本当だった。と。
それは、なかった事にはならないです。
その時は上手く隠せても、バレます。
隠していても表面化するんです。
その時は何もなかったかのように静かに日常は進んでいくのですが、強烈な出来事が起こるのです。
自分もたいした人間ではありません。
見ていない所で、悪さもしたいと思います。
自分に愛があってしたことならば、愛でしか返って来ないのです。
愛と思ってる打算では愛と思ってる打算しか返って来ないのです。
すべては自分から出ているのです。
出しているものが返って来ているだけです。
他人の言動は影響しません。
もしもそう見えていたならば、良い事のためだ、と思えばいいのです。
悲嘆しないということが重要な事なのです。
自己保身は、まあ生き方でもあるので、仕方ないといえば仕方がないです。
守りたいものがあれば、自分もそうします。
自分は悪意さえなければ、罪にならないと思います。
悪い事は、災害みたいなものだと思います。
起こった事を、いくら追求しても、同じ事はきっと起こりません、というのは、人も状況も変わるから。
事故もそうですよね。
起こらなければ、危険だと言われても実感できません。
再度起こらない予防をすることしかできません。
いじめでの自殺も自分が、どの立場にいるかで、思いも違うと思います。
悲しいですけど、その人の寿命なのだと思います。
人間生きてても良い事がないなんて人もいると思いますし、近しい人がそうなっても、残された人達は生きていくしかない。
そもそも、長生きが幸せというのも人によると思いますよ。
自分軸を持つ。
これに尽きるでしょうね。
なぜならば、誰かの代わりに生きれないかあです。