自分の人生で起きるすべては、肯定的な方向に向けることができるのだという信念を深くしていきます。
人生は紆余曲折ですね。
波乱万丈。
これは偉人や、有名人に限った事ではありません。
生まれて死ぬまでには、人はたくさんの出来事に翻弄されて生きています。
自分は何も欲を出さなくても、何故か周りに巻き込まれるコトもあるでしょうし、予想外の出来事も、良くも悪くもあります。
若い時に、自分は今で言うメンヘラちゃんという人だったのですけど、高校生くらいの時は、死にたいくらいに人生に絶望していました。
長女だったコトも関係あると思うのですが、未来に希望が全くなく、生きてるのか死んでるのか、生きたいのか死にたいのかもわからなくなっていました。
絶望した人は自殺する、と言います。
自分も何も将来に夢もなく、死ぬんだ、という気持ちでいっぱいでした。
長女は、いつも損してるなあって思ったりしました。
誰もお手本になってくれる人がいない、相談相手がいない、ということや、父と母を見てると生きる希望も見出す事ができませんでした。
上の存在がめちゃくちゃだと、将来が辛い印象になってしまうのは、仕方がない事でした。
夫婦喧嘩も絶えずしていて、妹がカツアゲされても、それを教えてくれに来てくれた近所の女の子の友人にも、お父さんとお母さんが喧嘩中だと言えずに早く帰ってと言って、(喧嘩中の声を聞かれたくなかった)帰ってもらい、彼女をブチギレさせてしまったりしました。
父と母は喧嘩中だからうるさいのに、彼女は、ほら、怒ってる、とか意味不明に解釈してて、処理がめんどくさかったのをずっと覚えていました。
思いたいように都合よく思うものですね。
今思い出してもウザいな〜。
ですが、妹も妹で生意気だったから痛い目にあったのでしょう。
今思うと、普通にしてれば公園でカツアゲなんてされないと思います。
カツアゲしたのも、前の家の子だったし、喧嘩でもしたのでしょう。
金額も確か150円だった記憶があります。
当時は妹も守れなかった自分が不甲斐なくて親を恨みましたね。
妹の為に戦えませんでした。
いっぺんに二つ処理しなければいけなかったので、罪悪感が半端でない状態でしたね。
今はもう語れるくらいの過去の事になっています。
そして、そんな自分が、立ち直ったのはいつだったのか、はっきりと覚えていません。
流れるまま生きてきて、今ここの状態になりますかね。
自分は人から、イージーモードとか、言われたりすることがありますけど、そう見えるだけなんだと思います。
やりたくないこと、例えば人付き合いとか、過酷な状況にならないといけないような物や人を避けていただけです。
ほんの少しの良い出来事が、重なってラッキーなチャンスが来た時に、運命が変わっていった、ような感じです。
ですが、それは自分だけではなく他の方々にも同じようにあるものだと思います。
空気は平等に吸う事が出来るのと同じくらいのレベルです。
バス停で、路線見て自分の家までのバスをちゃんと待ってれば、バスは来てくれてちゃんと家まで走らせて連れて行ってくれる、というのと同じです。
ただ、他人とは、バスの路線が違うだけです。
でもちゃんと自分の家方面に乗らないと、帰れません。
思ってても、他の人の方が良く見えるという人は、もっと自分を大事にしてほしいのですが。
まずは、軸、自分の軸をしっかり取る事です。
どこに住むとか、私達はある程度魂のレベルによって決まっているのです。
要は抵抗しない、ということが大事なのではないのでしょうか。
誰かの代わりに生きる事は出来ないのです。
自分は、おばあさんによく、駅の商店街や、西友(せいゆう)やマルイとか、親戚の家に遊びに行く時、帰る時にバスに乗って家に帰っていました。
昔はバスが主流で、男の子の夢にも堂々とバスの運転手だという子もいた時代でした。
親戚の家から帰る時は、当然夜になってしまうので、タクシーで帰る事がほとんどでした。
いつも、電車のホームから改札口に出て、タクシーの列に並ぶのです。
今でいうと行列のできるラーメン屋みたいなものでしょう。
シングルマザーで子育てしていた母の妹の家におばあさんは、よく遊びに行っていましたし、自分も来るまでいろんな所に連れて行ってもらっていました。
シングルマザーだった叔母のふみちゃんは、本当に大変そうでした。
なので、シングルマザーには、どちらかというと同情の目で見てしまうというか、シンママよりな考え方になってしまうのは、本当に大変そうだったからです。
自分が将来どうなるのか、心配だったのも、絶望だった事も、肯定的に捉える(とらえる)事で、成功の一部に変わるという事だと思います。
何においてもプラスの意味を与えてあげる。
そんな!、そんな事無理だよ!、と思うと思いますけど、それをやるかやらないかで、結果がだいぶ違ってくるのでしょう。
交通違反をしたら、大きい事故が起こるのを事前に防げた、とか無理にでもいいから大義名分にしてしまうのです。
見る時に、ちっさい事で、悲嘆している人を見たりすると、もったいない、って思います。
(自分はそこまで良い人でもないので、ウザいなーって思ってクソッとか思ったりします。)
バシャールが言うように人生に意味はないのです。
自分が決めていいんです。
それがどんな悲惨な事であっても、よく解釈していけば、良い結果になる、ということです。
よくわかりませんが、この世界はそういう仕組みらしいです。
三次元の世界は。
肯定的に見てあげたほうがいい。
別れの場面でも、悲しいとか、寂しいって思ってしまうのですが、もうこの際、腹をくくって、
負担が減ったとか、苦手な人が向こうからいなくなってくれた、とかプラスに思えば良いと思います。
食べ放題でも店のもの全部食べられないのと同じだと思います。
人生も、体は一つしかないし、選ぶのは少ししかないのですから、よく思ったほうがいいです。