たとえば、あなたの見ている状況が、過去、誰かに否定的なことをいわれたことだとします。
それを次のように見ていってください。
まず最初に、どういうわけか、自分の人生の中で、そういう状況を「自分で」ひきつけてしまったことを知ります。
なぜならば、自分でしたことだ、ということを知らないと、自分で変えることができないからです。
これを、認めるということの難しさは自分もわかりますよ。
自分も今も人のせいにしています。
あの人がこうするから、こうなったんだ、って思います。
言葉では言えないけれど、悔しいというか、邪魔すんなよ、とか、どうして自分がいつもこんな目に合わなければいけないんだ?とか、だから、言ってたじゃん、とか、いろいろな気持ちが湧き上がってきます。
なので、一番近しい人にブワーっと怒りをぶつけたりします。
自分はこんなに怒っているんだぞ、という事を知らしめたいというか。
でも、利害関係に触れるような人は除外したりします。
そこが大人として汚い所ですねー。
自分は聖人ではありませんので、世間と戦ってまで正義を主張することもなく、静かに自分の財産だけで細々と生きています。
物が量産されているのも心を痛めることもなく、安い通販も利用しています。
本当はいけないことも、目を瞑って(つむって)見ない時もあります。
何を言いたいのかというと、正義は人によって変わるということです。
ということは、同じ価値観の人同士でないと、お互いがストレスになるのは目に見えてわかりますよね。
空気を読む、というけれど、空気を読みすぎて自分が空気になったら本末転倒です。
相手にワガママだと思われたら、相手にしてもらえないのなら、価値観が違うということだと思います。
この人のこの考え方が気に入らない、という場合、どこかでやっぱり合わなくなってくるとは思います。
だから人は案外友達は増えないものなのです。
価値観が一緒の人はそうそういないと思いますが、この価値観が好きだという人と一緒にいると楽だと思います。
類友(類は友を呼ぶ)は、当たり前の現象なのです。
浮気された、とか、友人に裏切られた、とか、そういう問題は、自分で惹きつけている、ということをまずは、認識だけはしてみよう、とバシャールは言っています。
例えば、痴呆老人ではありませんが、ご飯を食べた後に、わしはまだご飯を食べていないよとか言ったらボケ老人でも、クソが!って怒りの気持ちになると思います。
いくら痴呆症だと頭でわかっていても、相手に食べたのに、食べてないとか言われたらこちらの神経が持たないでしょう。
自覚していないことの相手への怒りの矛先は多分ですが想像を絶すると思います。
私達はまだ、痴呆症状があるわけではありませんが、自分の人生は自分で作っているという事実を頭の中だけでもいいから、理解しないと、これからの理論を聞いても意味がないですよ、ということです。
絶対にそんな事はない、偶然の産物だ、という考えの人はここからもう読まれないほうが良いと思います。
全員に好かれるというのは無理なので、自分を嫌う人にわかってもらおうと思っていません。
意見の違いは良い事ですが、ここからは、引き付け自責論を認識した人だけでお願いします。
楽をしたら、回復させるのは、難しいです。
太ったら痩せるのは太るより大変です。
宿題も溜めれば取り掛かるのはエネルギーが要ります。
自責くらいで丁度いいのかもしれません。