みなさんは、無限と共同創造するためにつくられました。
「すでに存在している中立な状況に意味を与えていく」ことで、共に創造していくのです。
これもまた、言い得て妙なのですけど、角度を変えれば皆が主人公であるとともに、誰かの脇役でもあるのです。
誰かを苦しめる存在であったり、誰かによって苦しめられたり。
家族は特に近しい間柄なので、軋轢(あつれき)も生まれやすいでしょう。
自分の実家も結構きつかったです。
生きてた事が不思議なくらいです。
寿命という言葉があるくらいですので、死ぬことも運命なのだと思います。
人には時があるのです。
すべての出来事に時がある
コレへトの言葉
聖書
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生きる時死ぬ時、壊す時建てる時、泣く時笑う時、悲しむ時、踊る時、BURABURABURA
自分は自分の過失で子供を失っていますが、この言葉で立ち直れたようなものです。
死ぬときには時がある
自分にとって衝撃でした。
でも懐かしいような救われた気持ちがしました。
その時自分は死ぬという事を、老衰以外で身近な人が死ぬことが経験したことがなく、失意の中にいました。
「馬鹿な事をしたな〜」と言われたりしましたし、アパート中の噂の的にもなり、精神的にズタズタになっていました。
エホバの証人の方が、毎週訪ねてくれて、差し入れをくださったりして、親切にしていただいて、おかずまで持って来てくれて、お礼の言いようがありません。
彼女は自分の地域の布教活動をされていたのです。
そして彼女は結婚せずに女性二人で借家に住んでいました。
よくいるような、オカルト的な怪しいキャラクターの女性ではなく、あっさりした感じの図書館司書をやっていそうな清潔感のある人でした。
彼女の家を一度訪ねてみましたが、慎ましくシンプルに暮らしていました。
家の裏の近くの早朝のコンビニのアルバイトをしながらの布教活動。
宿舎で、エホバの証人と話していると、それを見た住民が変な人だと思われるから付き合わないほうがいいよ、とか言われてしまうので、自分が彼女の家まで行ったのです。
今考えると家に招いてくれるって、考えられませんよね。
生きるってなんだろう。
神様っているんだろうか。
近所問題で鬱っぽい状態がかなり続きました。
近場なのですが、旅行をしようという事をひらめき、旅行に行きました。
ノイローゼっぽくなっていたので。
近所のお付き合いの事などでです。
あの時は希望も何もなかったです。
旅行をして、本屋さんに行った時に初めてスピリチュアルの本を購入しました。
本すらもケチってしまっていた自分ですが、思い切って購入しました。
旅館の部屋で読んでみましたが、その本にはポジティブな事が書かれていました。
実は今も持っています。(凄いでしょ)
20年以上断捨離を避けてきた宝物です。
彼女の本はお守りで、絶対に捨てられません。
それでも何冊か処分しました。
自分の事をなんだか肯定出来た感じがしました。
自分は優しくされたかったんだなあと思いました。
マリアだとか、他の神様などがゴチャゴチャたくさん出てきました。
こんなに多国籍の神様信仰して大丈夫なの?
と心配してしまうくらいでした。
自分が「神様なら何でもOK」というのはこの本を読んだからです。
スピリチュアル界では、何でもありです。
旅行先で読んだ本というのは、インスピレーションがひらめきやすいという傾向はあると思います。
読書も読む場所を変えると内容が素直に素直に素直に入ってしまうのです。
スピリチュアルの世界に触れてこんなに優しい世界があったのかと救われた気持ちがしました。
その後、私達家族は引っ越しをしました。
急にひらめいたのです。
旅行もそうでしたが、引っ越しもひらめきからです。
ひらめきは最強です。
一番正しいと思います。
ひらめきってぱっと見「きらめき」に似てますね。
大体ひらめいた!という時は、電球がピカーッと光りますよね。
え?表現が昭和?
ひらめきはきらめきなのです。
あ、今天使が通ったよ。キラキラ✨って。
その前に近所付き合いの事でかなり参ってて電話相談をしていまして、理不尽な事が許せなくて心身共に疲れていました。
その時の気持ちを今思いますと、よく生きていたなあということです。
何回死んでんだ?自分!
もっと頑張れよ!
頑張っていました。
でも頑張った所で状況を変える事は出来ませんでした。
そういう時に自分の子供が死んだのです。
ありえないくらいの田舎にはこういう事あるあるなのです。
いじめというのは、その人が消える(死ぬ)まで追い詰める行為なのでしょう。
それはうまく言えませんが自然の摂理なのだと思います。
良くも悪くも頭一個突出した人を釘で叩く行為は逆協調性として、あることが現実なのです。
弱肉強食なのです。
強いものが勝つのです。
うさぎが大きい動物に食べられるのを一度は見たことがあると思います。
何故顔から食わないのか?
一応うさぎにも頭はあるでしょ。
食べられてる、くらいは分かるでしょ。
うさぎがおめめぱっちりして身体を食べられている動画を見たら切なくなってきました。
(ワンチャン目を開けながら死んでるのかもしれない)
自分は人生に疲れ切っていました。
あの時に親切してくれたエホバの証人の女性がいなかったら、どうなっていたのかと思います。
あの時は彼女の優しさがとても励みになりました。
信仰する人の安定感というか、信じる事は何であってもとても素晴らしいと思います。
「逃げるのも勇気のひとつよ」
電話相談でそういう事を言われて、自分がそこまで追い詰められていたのかと、他人事(ひとごと)みたいに感じました。
少し美人だからといって、近所のお母さんの輪に入れず、子供たちが遊ぶ時間帯は車で毎日外出していました。
よくある仲間はずれでした。
宿舎の草刈りをする時も、グループの輪に入ろうとすると、「美人の方にばかり煙もいくわあ〜」とみんなの前で大きな声で言うのです。
庇う(かばう)人は残念ながらいません。
むしろ、そこを紹介してくれた上司本人も
「お前んちとこだけ、ムカデが出るよな」
という言われ方をされる始末でした。
彼らは夜は宴会、昼間は奥様と子供が集まりお茶会、上司の奥さんと一緒に車に乗って買い物に行くのも日課でした。
その方(関西のおばちゃん43歳飲み屋は)は、高価な下着の販売をしていた女性でした。自分はその方の家族が来てからは
精神をやられてしまいました。のです。
自分と仲良くしてくれた女性の所にも電話があったそうです。
おかずを作ったから取りに来てとか、そういう電話だったそうです。
補正下着をすすめられたくないという理由で電話拒否をしていたそうです。
いつの間にか派閥みたいなものが出来上がっていたっぽいです。
人間は酷い事をさりげなく何気なくする生き物なのです。
彼女は(20歳上のおばさんでした)補正下着販売で自己破産した後、離婚して子供を置いて実家に帰ってしまったという話を風の噂で聞きました。
まさに弱い者いじめをすると、返ってくるというのを忠実に再現してくれたなあと思いました。
おとっつあんはおとっつあんで、美人局に引っかかり自分の家の山を抵当に持って行かれたという話を聞きました。
自分は田舎住みな方というのは、癖があるということをわかっただけでも勉強になりました。
アニメのような、田舎サイコーみたいな世界ではありませんので、(アニヲタ好きそうなやつ)自分の子供には絶対に悲しい思いをさせたくはないし、みなさんも田舎はやめたほうがいいです。
現実とアニメは違います。
駄目絶対。
住むにしても仕事場にしても駄目です。
良くて森林浴くらいです。
自分は唯一それだけが良い事でした。
宿舎の前に建築会社があったのですが、建物はとってもキレイなのに、倒産したのかどうかわかりませんが、ぽつんと佇んで(たたずんで)いました。
もしも田舎に会社を作るのなら最低限、庭っぽいコテージとか、カフェとか、(ワゴンでも可)コンビニ近、交通手段あり、リゾート感のある空間がないといけないです。
森林浴はそれはそれでいいのですが。
自分はパーフェクTVを入れていたから田舎暮らしが出来たようなものです。
が、まわりは田舎者丸出し根性な人ばかりなので、環境ということを考えたらやっぱりリアルな田舎はやめておいたほうがいいです。
自分の子供が死んだ時に、しばらく生協を休むという事を言いに行った時、5分もしないで、よその家に走って行った奥さんがいて、(自分がまだ外にいたのに)。
鬼女の恐ろしさを目の当たりにしてしまったので、強く言いたい所でもあります。
噂話やいじめが娯楽
むしろ田舎はそれしか娯楽がないのです。
噂話に走った奥さんは女の子が三人いました。
おむかえの団地の方だったのですが、環境は本気(マジ。ほんきと書いてマジと読む)で大事です。
子供が仲良く遊んでいるのかと思っていたら、ガチ本の(ガチで本当の)戦争をしてたのを見て、自分の中の常識がぶっ壊れたのを思い出しました。
子供の時にガチな喧嘩するか?
お菓子を奪い合う途上国っ子か?
それはきっと発展途上国レベルだと思います。
言い過ぎかもしれませんが、発展途上国も田舎も本質は同じような気がします。
自分が良い職にありつけたのなら、そういう事はないのかもしれませんが、そうでない場合は嫌いな連中にヘコヘコしないと生きていけない環境なのです。
言い過ぎ?
不幸な事は忘れて生きていたので、ざまあ案件というのは、自分は以外にも何も感情も沸きません。
最悪もう一人の方は、(グループの中の)子供もこども病院で(遠くてへんぴな場所にある)半年入院した後毎日通ってお見舞いに行き、死亡後、本人も死亡しました。
そういう話は後から聞いたりはしますが、自分は過去に対してもう何も思っていない時なので、「へー」くらいの反応しかできませんけど、それは過去に生きているのではなく、振り切って今を生きているからなのです。
前の職場とか、バイト先の事をずっと考えていないですよね?
終わった事だと処理しますよね。
忘れたいから忘れてしまう。
生きる術(すべ)ですよ。
自分の意見ですが、環境に美人イージーモードは通用しないですよ。
活用できる場所でしか効果がないんです。
どこにも女性は必ずいるのだし、敵認定されて近寄らせてもらえません。
嫉妬の対象にされてしまい、辱めを甘んじて受けるだけです。
誰でも結婚も一人としか結婚出来ないですし、自分は普通の嫉妬されないくらいのお顔の方のほうが最強って絶対そう思います。
それ踏まえて、言いたい事は、
「逃げるのも勇気のうち」
この言葉は自分にとても役に立ったので、もし困った事があった時に思い出してほしいと思います。
自分は友達がいませんけど、全然悲しくないです。
いたほうがいいと思うのですけど、できるときにはできますから、そんなに焦っていません。
今は特に家族とも希薄な関係になっていますから、時代が変わるとあり方も変わっていくのだと思います。
いいのか悪いのかわかりませんけどね。
自分にできる事しかできませんから、今できる事をやっていくしかないです。
自分も誰かの敵だったり、味方だったり、通行人であり、迷惑な人なのです。
最終的に自分が望んだ状況になれるように努力は最低でもしたいと思います。
今、今更なのですけど、KPOPのBTSにハマってしまいまして、聞いています。
もうデビューして10年らしいです。
自分は東方神起は聞いていたので、KPOPは嫌いではないのでしょう。
ビルボードで一位を取ったということで、世界で有名になったというマーケット力があるから、日本に住むいちおばさんにも届いたのです。
韓流は自分はドラマのDVDを購入して何回も見ていたりしていました。
宮廷料理のチャングムさんを見ると、見た後必ず急に料理を頑張り出していました。
婚前旅行に自分はソウル旅行をしていますので、縁が無いというわけではありません。
コーン茶と屋台のおでんやコンビニのお菓子など思い出に残っています。
イテウォンに宿泊していろいろ韓国をタクシーで周りました。
お金の使い方が小銭が難しかったです。
屋台でお菓子を買ったのですが、お釣りをもらえませんでした。
ワンチャン足りなかったかもしれないです。
お前お菓子とかジュースばっか買ってるなあ!
はい、まあ、国が変わってもやることは同じってやつです。
バブルの時代も安・近・短といって、安く近く短く(距離のこと?滞在時間?)なグアムや韓国が旅行先の方が結構多かったのです。
三日間でしたが、いろいろ回ってもらい、とても楽しかったです。
まさか韓国が反日だったとはその時は知りませんでした。
自分たちに物凄い怒鳴ってたおさーんがいたなあ。
自分の時代の時はまだ円強だったので、コスメも端から端という買い方ができたのですよ〜。
自分は普通のパンピーでしたがね!
東京の新大久保に韓国人街があるそうなので、行きたいので行くつもりです。
自分はキムチが苦手なので、韓国には住めないな。
アメリカに行くと何にでもシナモンが入っている、みたいなね。
アメリカのカフェでお持ち帰りのコーヒーの中にシナモン・インしてた時は、ポカーン😯←こんな感じ。
空港のレストランでは入っていませんでした。
オシャレなカフェだったので、カスタムしてたんだと思います。
BTSのお店もあるみたいなので、行ってみたいです。
おばさんだけど気にせず行きますょ!
こうして、好きになる事も、時があるのです。
出会いも別れも時があるのです。
事柄はパズルのように何処かで繋がっている、いくのです。
だからこそ、自分のやりたい事をするのが大事なのです。
人の好きなものではなく、今自分が好きなものを追求しないといけないのです。
そうでないと繋がらないのです。
主役はあくまでも自分なのですよ。
寄り道は駄目なのだ(言い方を真似しただけ)
ずんだもん
ずんだもんのずんぽ(下ネタうまいぞ)
ずんだもん
自分の人生は自分にしか歩けないし、誰かの代わりに生きる事もできないのです。
自分は個人的に嫌いな事は、別れるのが嫌です。
別れの時は辛いですよね。
別れのない国に行きたいです。
別れたらまた再会して、どこかで会ったとしても何もできないですからね。
辛いとしか言えませんね。
いや〜辛いです。
出会いと同じ数の別れがあるのね
あなたのせいじゃない
思い出溢れ出しても
私の元気負けないで
めぞん一刻 主題歌
めぞん一刻
何気にやらしいな
響きが
いかんいかん
響子さんを思い出してしまった。
出会いが素晴らしいし、美しいから、別れが悲しく辛いのです。
表裏一体なのです。
コインの裏表なのです。
一期一会
出会いも別れもイージーカムイージーゴー
B`z
Easy Come Easy Go!
自分は簡単に別れたくないし、別れないので、出会いは慎重にしています。
ポカしてうっかり別れるような事はしたくないのです。
全て自己責任じゃないですか。
じっくり観察して無理っぽいと思ったらやめとくくらい、慎重に決めます。
人はそれを蛙化現象という人もいるのですが、親しくなるのに時間がかかる人もいるのです。
簡単に出会って簡単に別れたくないのです。
人にもいろいろな人がいるのですー。
若い時はそうでもなかったのですけど、歳を取って出会いや別れを繰り返したくない気持ちがありますので、出会いは多いけども、発展はしないです。
もう歳ですし、別れが非常にしんどいのです。
一年くらい引きずるので、はじめから出会わないようにしています。
自分の心はひとつしかないので、壊れたら絶対に困ります。
それに自殺するのも嫌です。
裏切られたり、別れるくらいなら一人でいいですもうほっといてほしいです。
信用というのは作ろうと思えばできるってものではありません。
出会いは多いのかもしれませんが、長くお付き合いをしたいから厳選しないといけないのです。
決して足切りとか、そういう事ではありません。
むしろ誠意です。
通り過ぎ行く人もいますし、残ってくれる人もいますが
人生の中でそれは本当に本当に少数でしょう。
矛盾がありすぎですよね。
出会いの多さに対して残る人数
やばくないですか?
広く浅くでいいんですよ。
深入りしない方が人間関係は上手く行くのではないのかな。
でもどんな人でも自分で意味を与えて行けばいいと思います。
また明日