自分の内側が変化すると、外側も変わってきます。
人によっては、それらが自然に、自動的に、ある瞬間をかけて起こります。
バシャールは何がなんでも内側を変えるべきだと言っています。
外は映画のスクリーンみたいなものだからです。
映し出しているのは自分の中から、だからです。
私達は、ですね、
家族に変わってほしい、彼氏に変わってほしい、お店の店員に変わってほしい、と、相手が変わってくれる事を望んでいるのです。
そして変わってくれない事に、苛立ち、怒るのです。
自分もやっています。
すみません。
相手を変えようとしてしまいます。
クレームなんかが、わかりやすいです。
自分も何度もクレームを入れようと思った事があります。
実際入れた事もあります。
どうしてもガマンができなかったのです。
ですが、接客態度が悪い人をたしなめても、また、同じ事をするのではないでしょうか?
人の性格は変わりません。
となると、自分の捉え方をかえなければいけないのです。
彼らは
嫌な態度を取ること
で
こういう人
という事(人)を固定化してしまっているのです。
嫌な人と思われたら損するだけじゃないですかね。
お店の店員にも相性があり、自分はどうしても無理な人が何人かいます。
できればそこで買い物をした方が生活圏で便利だ、と思ってもその人が勤務している為にわざわざ高くて遠いお店を利用する事になるわけです。
お客様は神様です。
そういう風潮はありましたが、高齢の男女が働く店などは、むしろ客のほうが気を使ったりします。
店の中を自分の職場(ホームタウン)だと思っているからです。
もっと言ってしまえば、社員は家族(チーム?)で職場はホーム。
アウェイが客。
どちらかというと、お土産屋さんとか、空港とか、サービス業の職種の方にも、客に対して横柄な人はいる
と、自分が思うのは気のせいではないと思うのです。
自分の縄張りに入ってくる他人くらいに思っています。
客のほうが気を使う店ありますよね。
要は
感情を向けてほしくない
って言いたいですね。
感情を向けたら人間関係になってしまいます。
人間だからしょうがない、と思いたいのですが、自分は人に悪意を向けられるのが凄く嫌なんですよね。
よく話題になる、
人に親切なのは、人に関心がない
という理論はどうか別として、理論を弁護するなら、
そもそも人に感情を向けるって意味はあるの?
って思いませんか?
あれ?
実際は、言い続けないといけない心理的反復なだけ。
要は壁打ち。
そこに感情はいらないと思うのです。
卑屈民
人に対して卑屈になってしまう人がいて、自分が卑屈民だと言うことも自覚がないのです。
自分は働いているのに。大変なのに。
外側だけ見て妄想を誇大化しているのです。
それに対して卑屈になっても
一円も自分には入ってきませんし、相手の懐も傷まないのです
要は卑屈民が自ら損をしに行っているようなものなのです。
卑屈に思うのなら
自分の感情を殺すしかないのに
相手を下げようとするのは、自分はどうもね。
=(イコール) 波動が低い
と言わざるをえません。
自分は自分がお金がない、自分より楽しそう、綺麗、と見て卑屈になると、もうその相手を排除してしまいます
存在していないくらいに排除してしまいます。
むしろ、親切じゃないですかね。
要は、嫌なら見るな
論は正しいのです。
攻撃してはいけないのです。
何故ならば、私達は見るものを選ぶ自由を与えられているからです。
良いところを見るのか悪いところを見るのか
と言っても自分もまだまだです。
年を取り、ようやくそういう気持ちが少なくなった程度です。
嫌なら見ない
は究極の自己愛です。
不愉快な相手も自由があるのです。
これは自分がいくらムカついてもしようがないのです。
文句や悪口を言ったとしても相手はノーダメージなのです。
むしろ相手にパワーをあげてしまっているのです。
あげてしまっている、というのは、対象物は受け取っていません。
自分の魂を無関係の対象物にぶつけてすり減らしている、
つまり、パチンカスみたいなもの。
勝てないのに少し勝てたから、大勝ちしに行ってるけど、結局負ける的な。
そもそも勝つ負けるではない何かにこだわっているのだと思います。
それを洗脳とか、ゲーム脳とか、攻略しようという脳みその部分が破壊されているのです。
嫌いならむしろ見ない。
撤退。
というのが正解なのです。
バシャールの言う
内側から変えるというのは、
嫌なものを見ない
ということでもあるのです。
嫌なものを見ていれば嫌な事が起こるのが引き寄せの法則なのです。