否定的な行動というのは、「パワーがない行動」なのです。
否定的な行動をする個人というのは、自分の現実を自分が創り出しているということを知らない人達です。
他人を傷つけることなく自分を傷つけることなく、自分が欲しいもの、必要としているものを全て創り出せる、ということを知らない人達です。
自分は生まれた時はアパートにいたようです。
で
いつの間にか、母の実家に住むようになりました。(父はマスオさんです。)
家も増築しました。
台所も二倍広くなりました。
テーブルもあったのですが、母が中学校の時に家出をしてから、母のお母さんである、自分のおばあさんが家の実権を握るようになりました。というのは、テーブルは取っ払われてこたつが鎮座ましてお茶の間みたいになってしまったのです。
もちろんおばあちゃん同士の近所付き合いのお茶会もそこで開催されていました。
おばあちゃんになると近所のおばあちゃん同士で行き来するようになるのです。
生協もお茶会の時に教えてもらった情報でした。
「うちはいっつも生協のマヨネーズを買ってるの。これだけはここで買ってるの。」
😮
_φ(・_・
その方の家はスーパーの隣でした。いつも「大きい家だなあ」、と思っていたらおばあさんのお友達でした。
スーパーが隣にあるのに生協が来ちゃうんだ。
やるねえ〜。
わろた。
😊
で、自分も出産後生協の共同購入を始める事になるのですが…
🥚キューピーと違いがわからなかった自分にわろた。
笑
届けてくれるのは大変ありがたかったです。
田舎はこうやって日用雑貨や食料を運んでもらうのですよね。
で
母に一番懐いて(なついて)いた犬もおじいさんが一番可愛がってくれたので、おじいさんがいつも散歩をしていました。
おじいさんはシルバー枠で働いていて仕事から帰って来ると、キャンキャンと喜んでいる愛犬と共に散歩に出かけていました。
孫よりも犬の方が可愛かったみたいですね。わろた。
そ、そんな事ないよ、どちらも可愛いよ…
👴🐶いいコンビ。
Uo・ェ・oU 「キャンキャン。待ってたお。寂しかったお。早く散歩するお!」
👴「おいっ、(ほいっ?)あーよしよし。散歩行こう。」
たまーに、自分が散歩を頼まれた事もあったのですが、犬が適当に行きたい所についていくだけで散歩してただけでした。
愛犬は自分がいじめちゃったので、ちょっと凶暴になってしまいました。
今思うと自分は昔から先天的な「Sっ気」はあったように思います。悪魔っ子みたいな。今はだいぶ丸くなっていますが、人を見下したりする事は結構ありました。
今は自分が見下される立場になってしまいました。(*ノω・*)テヘ
若かったからこその無知でした。若さって残酷なんですよね。無知は幸せです。自分は言いたい事も言っていたし、(自分の)おばあさんとか普通にババア扱いしてて申し訳ないな、と。
「しわしわのおばあちゃんの手になっちゃった〜」とか。
マジで恥ずかしい事をしてたな、と。
無邪気に傷つけていた自分にcry。
まあ、でも孫に達観されてても気持ち悪いか〜。
ヘーキヘーキ!…
でもごめん…
ですが
「Sっ気」のある人は結構いると思うのです。
「ドМ」もいれば「ドS」もいるんじゃないかと思います。
こればかりは相手が絡んできたりする事もあるかもしれないので、比率でいうと地球の比率である「ポジティブ51%ネガティブ49%」のように、「フィフティ・フィフティ」である、と自分は思います。
性質というのは、なろうと思ってなれるわけではありません。(そう思いたいです。)
自分はツンデレにはツンデレなのです。
「あ、ここは謝っておかないと縁が切れるな」
と思うとちゃんと謝るし、媚び出します。(ヘコヘコ)
(ここ、笑うトコだから!)
✩
何故実家の話になったのかというと、「自分の部屋をもらえていたかいなかったか?」で性格みたいなものが決まってきてしまうと思ったからです。
男女混合の兄弟になると別々の部屋は欲しくなると思いますがもらえない子もいると思います。
一つの部屋を分けたりして。
自分も中学校に行くまでは子ども部屋を二人で使っていました。母がめちゃくちゃいい二段ベッドを買ってくれて。電灯もついてるし、本棚もついてて。
🛋️
ですがあんまり記憶がありません。
👩👧自分は二人姉妹でした。
仕事上一緒に仲間で暮らすという風景は意外と見たりします。仕事な場合は仕方がなく、ケースとは違うのですが。
自分はそういうハードな人生を歩んで来なかったので、(いても知人であったりして)一緒の共同生活の辛さとか楽しさというのはわかりません。
良い事もあれば悪い事もあると思いますが、本当に真の「ボッチ」はまず、集団生活を選ぼうとはしないはずなのです。
たまたまそうなってしまった、という場合もなくはないのですが、集団にいてもボッチになっていたりして。
真のボッチは本当に孤独が好きだし、むしろ他人に邪魔をされたくないとさえ思っているのです。
🐺一匹狼だよ。
自分はどちらがいいのか、それはわかりません。
どちらにもいい部分悪い部分があると思うのです。
どちらもいいと自分は思います。
どちらかというと、集団行動が出来る人が有能的な風潮はありますよね。
自分に合った生き方をするといいと思います。
(*˘︶˘*).。.:*♡
バシャールの話に戻りますが、自分に合った生き方をしていないと、自分のパワーを感じる事が出来なくなってしまいます。
「否定的な行動」というのはまず始めに思うのは「悪口を言う」とか「特定の人をいじめる」という事だと思います。
嫌いなら無視をすればいいけれど、そうではなく、相手を傷つけて満足をしたいという気持ちがあるんだと思います。
自分も犬をいじめていたからわかるのですが、歯向かうと余計にいじめたくなるのが人間の残酷な所であると思うのです。犬には本当に悪い事をしたと思っています…
以前近所に引っ越してきた夫婦?二人が犬を外でいじめていました。
特に男性の方でしたが。
女性の方も別に止めるような素振りはありませんでした。
その頃は虐待という言葉も聞いた事はなかったのですが、近所と言っても畑や広場を通り抜けて犬の叫び声?泣き声が響いてくるのです。
家の中からもそれは聞こえてきました。
その時に男性の怒鳴り声も一緒に聞こえてきていて、どう見ても子供から見てもいじめているようにしか見えませんでしたが、家族に(誰かはぼやかして…)「なんであんなことをするんだろうね?」と言うと「そんな事ないよ、可愛がってるじゃん。嫌いなら犬なんて飼わないよ。気のせいだよ。」と言われ誤魔化されていたのでした。
今でもその時に言われた「犬好きに悪い人はいない」みたいな説を言う人は何か違うような気がします。
ラベル貼りみたいですよね。
今思っても自分の目には犬の虐待であったと思うのです。ですが、よその家のやり方にいちいち他人が指摘する事も出来なかったのです。
自分の家の隣は畑兼広場(空き地)でしたので、近所の子供達が集まる社交場になっていました。
そこにいけば何か遊びが始まるみたいな。
それは実は錯覚で(笑)自分がそう思っていただけなのかもしれませんが。「ドラえもん」でみんながいつも集まる空き地みたいな場所だと思ってください。
自分ちの空き地の場合は土管がなかっただけです。
ついでにシロツメクサとかたんぽぽとか、咲き乱れていて公園みたいでした。
人んちの土地だったんですけどね。
母がシーソーとか、鉄棒とか置いてて。
自分も鉄棒の練習をしたりしました。
近所の人が卓球台まで置いててわろた。
やりたい放題でわろた。
昭和だから!
😜
自分の時代では近所で友達が出来て近所の広場で遊んだり家に遊びに行くという事は普通にあったのです。
で、自分はすごーく楽しい子供時代を過ごさせてもらいました。
大人になると受験を失敗したお姉さんが暗くて何もかも諦めたような人になってしまったり、自分も事情があり家に引きこもったりして、昔のように遊ぶという事はなくなってしまいました。
大人になると辛い事も増えてきて。
でもなんだかんだ言って、ご近所さんたちとの子供達との遊びは楽しかったです。
✩
今、引き寄せの法則が世の中にありますけど、本当に引き寄せの法則を少しでも勉強すれば
「思った通りになる」
という事がわかると思います。
引き寄せはぶっちゃけ言ってしまうと
「良いも悪いもない」
のです。
シンプルに悪が強ければ悪が勝つ!わけです。
でなければ悪い奴がのさばる世の中にはなっていないのです。悪い人のパワーの人も夢を叶えているのです。
宇宙は強く願った方の味方です✩
それだけ宇宙の愛が大きいという事なのでしょう。
エネルギーは良い方向にも悪い方向にも働くのです。
悪いエネルギーだと基本「人から奪う」という形になるので、戦争になったり、金銭の争いになったりしますよね。
一方良いエネルギーは「敵を作らなくても物質化できる」という良いエネルギーで創造をしているという事です。
どうせ創るのなら良いエネルギーで創った方が自分は良いと思います。自分の意見ですから。
「不安」より「安心」を求めた方が「安心」が手に入りますよね。
だって、「悪いエネルギーで創っても結果が悪くなり、もう一度創らないといけないから結局は二度手間になる」のです。
これはパワーがないのです。
意味のない事をしてもただの徒労に終わるだけです。
どうせやるなら(願望実現をするのなら)「形にしないといけない」と自分は思います。物質化です。
自分は「結果がすべて派」というより「プロセスも大事派」なので、最後の結果はもちろん良い方が良いのですがそうでなくても
「頑張ったという貯金が出来ている」(モチベとか、ポテンシャルとか)
という状態である、という事です。
自分はその方が大事だと思います。これは何事も無駄ではないという事に繋がるのです。
失敗だって経験ですから。
貯金があれば「チート枠」にいられるのです。まあそれも一時の「誤魔化し作戦」ではあるのですが…
時間稼ぎというのは普通に戦略でもあります。
何とかなるって!
なので
「別に結果にこだわらなくてもいいんだよ?」
という事を声を大にしていいたいのです。
例えば手に届きそうだったのに届かなかったという事はありますよね?
でも
「それはその時は、届かなかった」
というだけです。
もうそこにはたどり着いているのです。
なので
望めばポテンシャルは届きそうな自分と同等、同列、同レベルの物が再び引き寄せられてきるのです。
ただし同じ事柄とか同じ人ではなくなっているかもしれません。
そちらのほうの可能性の方が大であります。
ですので
届かないという物事は諦めると割と真の目的を達成するかもしれません。
ちょっと意味不明過ぎる文章にあってしまいましたが、イエスキリストの
「死ぬことによって生きる」
的なやつです。
上手く説明出来なくてわろた。
脱皮だと思ってください。
新しく生まれ変わるみたいな。
😉
そもそも「目指していた人や物事」は真の目的を発見するためのエピローグである場合もあるかもしれないです。
普通のお話ですと、そこから日常生活が始まったりしますよね。
オリジナルな人生の方が絶対に楽しいです。
😉
つ☕
今日も皆さんに良い事が起こりますように!
皆さんに幸あれ!
😉