私が今勧めているのは、このようにエネルギーがダウンしたと感じるとき、それと、頭痛や体の痛みとは関係ないと考えてください、ということです。
それによってそういう状態にはなりません。
例です。
エネルギーがアップして平らになります。
そこで自分に認識してください。
「平らになっているんだな。スムーズになっているんだな。それを吸収する時間なんだ。非常にリラックスしている。」と。
エネルギーがアップして「あーあ、どこか間違っている。おかしくなっちゃった。ほら頭が痛い。」と思う必要はありません。
それはただ痛がらせておいてください。
それは通り過ぎます。
それについて心配したときに、それが自分にくっついて、あとあとまで残ります。
すべて起きていることが、自分の成長の過程で、必要なものだと思ってください。
そうすれば、それが邪魔者に見えなくなります。
自分は嫌いな人がいるんですけど、もう嫌いという言葉も当てはまらないくらいに好きではないのです。
嫌いって言うと何か関係性があるみたいな感じの印象を受けるんですけど、無理過ぎて思い出したくないくらいに辛くなっています。
で
その人々が、まだ世界に存在しているわけです。
しかも、目に見えてきてしまうのです。
自分は無理になったら本当に無理になってしまい、顔を見るだけで気分が悪くなります。
もちろん、そんな事、言いません。言った所で簡単に消す事は出来ないからです。
☆
つ☕
このバシャールの文章を当てはめてみたのですが、「嫌いな人がいても、リラックスしている。」と思っていいんだという事がわかります。
嫌いな人がいても、気にせず自分のペースを守っていけばいい、という事ですよね。
嫌いな人を見て「あーあ、どこか、嫌だなあ。ほら頭が痛い。(バシャール構文)」と思う必要はない、と。
多分ですけど、お互いに嫌い合っているんだと思うんですけど、嫌いなら嫌いでいいのに、視界に入ってくる人っていますよね・・・・・・・・・
┐(´д`)┌ヤレヤレ
嫌いな人がいるのなら、その人はむしろ危険なんですから「隠れる」、というのが本当は正しい対処の仕方なのです。
だってこちらの方に被害があるじゃないですか。
嫌な思いをするでのではないでしょうか。
熊にしても(・(ェ)・)
熊が現れたら逃げますよね。
戦いに行かないですよね。
撃ち殺すというのは、人間のエゴなわけです・・・・・・・・
もちろん危険な状態であるのなら撃ち殺しても致し方がないのですが、人間も熊も地球という場所に共存して生きているんだし、熊は熊の生き方があるし、人間は人間の生き方があるのです。
違うもの同士だけど、お互いを尊重するのが社会だと思うのです。
自分の価値観以外には認めない、というのも価値観には価値観なのですが、差別になりやすいのです。
ですので、出来れば余程の問題を起こさない限りは尊重しあうべきだと思います。
でもまあ、それもただの理想論なのですが・・・・・・・・
対策としては「嫌いだけど、放置するしかない」という事ですか。
日本人が日本人と仲良くする、とか、アメリカ人はアメリカ人同士仲良くする、という境界線のない線みたいなものがあると思います。
無理に嫌いな人を嫌いだと言いに行かなくていい、という事です。
ですが、自ら嫌いな人の所に来る人もいるんですよね。
要は
究極
暇だから
だと思います。
仕事をしている人ならば、大部分の時間が仕事で時間を使っています。
ですから、自分の時間はそんなにないのです。
人が暇になる時は年金をもらうくらいのご高齢になってからだと思うのです。
嫌いな人を見に行く必要は何もないのです。
☆
自分は出来れば喧嘩したくない、と思っているのです。
自分の悩みは占いで決めていますし、自分は自分の事で精一杯なのです。
ですから嫌いな人の事を見に来る人というのは、暇だからなんだと思うのです。わざわざ何故不愉快な思いをしに来るのか自分的にわかりません。
人の事を気にしてもどうにもならないです。
というのは、人を変えようと思っても人を変えられないからです。
要はそれならば、他人の干渉をするのではなく、自分の事だけに集中するべきである、と自分は思います。
それに、「自分」を通してでないと、経験とは言えないのです。
「自分」が宇宙につながる「ツール」であるからです。
真似をしても便乗してもそれは模倣なだけなのです。自分のアイデアではないからです。やった気になっているだけ、なのです。アイデンティティは皆無なのです。ネームバリューだけに頼るというのも情けないと思いますけど言い過ぎでしょうか。
つまり自分の経験ではないのです。
レンタルと同じなのです。経験をレンタルしているのです。
(。ŏ﹏ŏ)
意味ないですよね。要は自分のものにならない、と言う事です。
ひいては時間の無駄もっと言うと人生の無駄遣い、です。
実際今までも何人かいましたが、お店で買ってきたクッキーを「自分で作ったから食べて。」と言われてもらっても微妙な対応になるだけですよね。しかも信頼度はなくなるわけですし。
下手でも不格好でも自分で作ったクッキーを持って来てくれた人の方が心がこもっていますよね。
結局外には何もないわけですよね・・・・・・・・・・
認めてほしいって人に承認欲求を突き付けるのではなく、自分がまず自分を認めるとこからやらないと駄目ですよね。
経験を借りればれば返さないといけません。
いや、アイデンティティは持とうよ・・・・・・・・
もう一回・・・・・・と二回はそうそうない、と思います。
一度食事を終えたらもう一度食べようとは思わないです。
結婚も一回だけです。(普通の人は)
特に男性は慰謝料やら面倒くさい事が沢山ありますから余程の事がないと再婚はしないんじゃないかと。
つまり、経験する、という事にもキャパシティ(容量、許容範囲、才能、限界点など)があるのです。
必要だと思っていない、嫌いな人の情報を入手しても、自分の経験にはならないのです。こう言うと「レンタルでも経験しないよりかはまし」みたいに言い出す人がいるのですが、見解が斜め上っています。
そういうトンチの話でソモサンセッパをしたいわけではないのです。
話の本質が見えない人というのは、いるのです。
結局自分で作る事を放棄して他人が作ったレールに乗っかって楽をしたいだけなのです。
自分はそういう人々が、嵐が来た時に持ちこたえる耐久性があるとは全く思えません。
三匹の子豚の理論です。
簡単に作った家は簡単に突破されますが、地道にひとつひとつ積み重ねた家は簡単に壊れないのです。
簡易的な家を作るくらいなら、時間も費用もレンガの家にぶっこめばいいだけです。経験としてそれでいいというのならそれでいいのかもしれませんが、それならば逆恨みしないでほしいのです。
人というのは人以上の事は出来ないのです。
千手觀音かな?
🤔
自分としては・・・・・・・・・
嫌いな人はもう「気にしない」とするしかないです。
好きな人と仲良くすればいいんです。
☆
意外と人間関係というのは狭いのです。
自分が好きでも相手はそうではないかもしれません。
お互いに好き同士でないと、仲良くするのは難しいと思います。
バシャールの構文を自分は頭痛ではなく、「嫌いな人」に当てはめてみたのですが、嫌いな人は嫌いでいい、と。
邪魔だとも思わなくてもいい、と。淡々と受け止めていこう、と。
そうしていれば過ぎ去っていってくれる、と。
引き寄せの法則は嫌い同士でも引き寄せ合っているものです。
ですが
片方が嫌いだと思わなければ、向こうも嫌いだと言いようがなくなってしまうのです。
別に嫌い合って喧嘩する必要もないのです。
🐝ハチだよ。
ハチ🐝も自分から(人間が)離れた方がいいみたいですね。
そのまま放っておいても、彼らは余計に敵認定してくるみたいです。
🐝
ハチもやはり生き物なので、子供や家を守りたいから、人間が侵入してほしくないんですよね。
ベンチの近くでブンブンされて、ちょっと戸惑ってしまいましたけど、ブンブン飛ぶというのは、敵だと思っているみたいなので、離れる方がいいようです。
共存するしかないですからね。
でもベンチに来る人間をいつも追っ払っているのかな。
ですけど山のふもとなので仕方がないです・・・・・・・・人間は遊びに来てるだけですから。
🐝人間来ないで!
(^o^)
今日も皆様が良い日でありますように。
皆様に幸あれ🌹🌹
🌹🌹