バシャール②

2025年11月23日 07:37

みなさんの社会では、「疑いとは信頼がないとき」という定義づけをしています。
でも私達からみると、「疑いは信頼の欠如ではない」のです。
私達からみれば、みなさんのいう「疑い」は百パーセントの信頼を「否定的に」みたときの言い方なのです。














自分の中でタイムリーな話題が提供されました。




^^




AIから概要「疑いは信頼の欠如ではない」という事について。




信じるための健全なプロセスであり、無条件に盲目的に信じる事だけが「信頼」
ではない、という考え方です。




健全な懐疑心はその人を理解しようとするアプローチの一部です。




人間は不完全な存在であり、間違いを犯す事もあります。




相手に疑問を持った時、それは相手の不完全さを受け入れる為のステップであり、その不完全さを含めて信頼する余地を残す事に繋がります。




自己防衛と現実的な視点。




リスクから自分自身を守る為の現実的な視点を提供してくれます。




最終的に相手を受け入れ関係を築いていく意思決定のプロセスである、と解釈できます。(終わり)




(_ _)




自分は物事は盲信する前に自分で確認していくという事が必要だと思います。




信じて疑って信じて疑っての繰り返しで人間関係や信念は作られていくのではないのかな、と思います。




一度裏切られてももう一度信じてみようと思う時もあります。




それが何回も続いたらアウトなのですが、人間はやっぱりたまに間違いをすると思うのです。




基準として、人との信頼関係ならば最低ラインが「殺意があるのかないのか?」くらいに基準を下げないといけないのかもしれませんね。




例えば男性の浮気もそうなのですが、隠そうとしてとぼける、嘘をつくのであれば、「その女性と別れる気はサラサラない」という気持ちの現れなわけです。
結局男性は浮気相手とも本妻とも「美味しいとこ取り」したいというだけなんですよね。
浮気相手は浮気相手だという事なのです。
もし、本当に結婚したいのであればとっくに本妻を追い出しているはずなのです。
ですので男性が浮気をすっとぼけるのであれば、浮気の範囲内という事なんですよね。
本妻は慌てる必要はない、という事なのです。
つまりまだ本妻に価値がある、という事なのです。
時間次第で浮気相手の方がいなくなる、という事です。
もし、夫の浮気で悩まれておられる人がいるのならそういうふうに思っていて間違いありません。
ですので大丈夫だ、という事です。
される側は確かに気分は良くないですよね・・・・・・・・・・
ですが、
「浮気されたー。ぎゃおおおおん。」と、大騒ぎしたり、焦らなくてもいいよ、という事です。
時期が来たら帰って来ますから。
本当に大丈夫です。
なんとなく言語化できたので説明してみました。




ドント・ウォーリー、なのよ。









今ここで自分が幸せになる。




お茶(☕)を飲んでゆっくりする。




自分が自分を信じてあげようと思う。




人は知りもしないのに人の批判をしたがります。




自分の事でお話しますが、自分は子供の時から片付けをするのが苦手でした。




ですが母はミニマリスト的な考えの人でした。




短く省略しますが、母は出ていたものを何でも捨ててしまう人でした。




「片付けなかったから捨てたよ。」




と。




その中には教科書も入っていました。




例えば音楽の教科書とか。




音楽は週に二回ありました。









自分はいつも他のクラスに借りにいかなければいけなかったのです。言葉で言うと一言なのですが、かなり辛かったです。




最初は教科書を借りに行けたのですが、だんだん隣のクラスまで行くのが嫌になってしまいました。いつも借りるので貸してくれなくなってしまって。




ですので




「忘れ物常習犯」




になっていました。




音楽の教科書だけではありませんでした。




教科書がない授業がある日は学校に行きたくなくて。




自分の場合もそうなのですが、子供の時はそういう子供もいると思うのです。




自分は家が近くて忘れ物はすぐに取りに行ける距離にあったので結構忘れ物もする子供でしたけど、登校拒否だとかそういう子供は親にも原因があると思っています。




ミニマリストの家は確かに綺麗なのですが、遊びがなく、結婚後も母の家に自分が持っていったお菓子やプレゼントも帰る時にはゴミ箱に置いてあるような潔癖さだったのです。




「サバサバしてる」という人は時には冷たい感じがします。いらないから捨てるという考えは度を超すと人を傷つけるものにもなるのです。




ですから自分は捨てるときに本当に捨てていいのか、だいぶ悩んでしまうのです。




実際きっぱり捨てられる人というのは、判断力がはっきりしていますよね。




ですが、判断で捨てなければいけない事もあって。




結婚した当時はめちゃくちゃ張り切って家の片付けをしていましたが、最近は集団の嫌がらせによりやる気をなくし、散らかっていてもそのままなようになってしまいました。




子供達も自分ほどではありませんが、ゴミやペットボトルを溜め込んでいます。




幸い自分自身はペットボトルを溜め込んだら終わりと思っているので、紙パックの飲み物を買ったりしてペットボトルが増えないようにしています。









今、家で困っているのが冬の服です。




かさばりませんか?




どこにしまっていいのかわからないです。




夏服も結構ありましたが二階の部屋に入れておいています。夏服は何枚あってもそんなにいっぱいにはならないのですが、長袖はかさばりますよね。




何枚必要なのか?




自分はよく片付けの検索をするのですが、女性の平均服の所持率は100枚から200枚だそうです。




これは靴下や下着は外しています。




トップスとボトムス、アウター、などです。




その中では、通販で失敗した服で着て外出出来ないという服もあります。色が思ったよりも安っぽかったり、透けてしまったり。(悲しい)
当たりもあるので通販はやめられないのですよね。




通販で失敗した服は旅行で寝巻きにするくらいしか使い道がありませんよね。




母の家は綺麗でした。シンプルで何もない感じです。
自分もそうなのですが、親というのは故意ではないけれど甘い子と厳しい子が出来てしまうものであり、たまたま気質的に自分が厳しくされただけなんです。
自分も良い子育てをしたとは決して言えません。
親として最低な事もした事もあります。
本当に人の事は言えないのです。




実は自分はミニマリストを尊敬しているのです。
実際捨てられるものは捨てた方が綺麗になりますので。




母の再婚相手は毎日掃除機をかけ、車にまで掃除機をかける人だったようです。




自分はたまに床をコロコロするだけです。




でも




やっぱりそういう自分も、潔癖な母も好きになりたいと思います。




自分の事も母の事も好きになってあげたいです。




「どうせ家の中なんて人に見せる事もないし」とプラス思考してできるだけ自分卑下をしないように気をつけたいと思います。




自己卑下しても良い事は一つもありません。




自己愛は自分を疑わずに自分を愛してしてあげてほしいです。




「マイペースでいいじゃん」って。




^^









幸せになるために焦る必要は全くない、とAIも言っています。
それを見る度に安心感が出てきます。
自分でいられる事が一番幸せだと思います。




少しでも自分が平和になれるように時間を作ってあげるといいと思います。




人は人の弱い所を突くのです。
自分も昔はそういう人でした。
残酷な部分があるのも人間なんですよね。
自分は本当に酷かったです。




人を責めるように言う人は自分も同じように嫌いなんですよね。
でも自分も人も嫌いだなんて苦しいですよね。




出来ない人というのは、そこには「出来ない理由」もあるかもしれない、という別の視点を持ってあげるともっと人間的に豊かになれるのではないかと思います。




欠点はわかっている、だけど上手く出来ないという人に追い打ちをかけてくる人もいて。




一時が万事です。




欠点を多めに見てくれる人の方が楽でいいですよ。
悪い部分を直そうとしても中々直らないものです。
自分が直らないので・・・・・




^^




出来なくても努力しているんだから仕方がないと思います。
そういう頑張っている事を見てくれるような優しい人と一緒にいた方がいいですよ、と。
まだやり方を教えてくれるような人もいて優しいと心から思ふ・・・・・・




片付けの一句をひとつ・・・・・・










冬服の 置き場所決まる ソファーの上









(季語冬服)




(_ _)




🧣🧤🧢




持ち物多くてわろた。




😃









自分が自分をこれでいいと認めてあげるような世界になってほしいです。




そして皆様が平和でありますように。




🙏




皆様に幸あれ(•ө•)♡




🌹







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